心のどこかで自らの不幸を望んでいる気がする

生きられないという不幸な状況を無意識で望んでいる気がする。

これを続けると生きられてしまう!と思うとなぜかやる気がなくなったり、逃げ出したくなる。

今に始まったことではない。

ずっと昔からそんな感覚があった。

だが、それを今まで無視してきた。直視しないようにしてきた。

でもどうやらそれも限界なようだ。

なぜ人生が上向かないのか謎だったが心の奥底でそれを望んでいなかったのだろう。

生きられる。幸せになってしまう。そういう状況を無意識に避けてしまうのだろう。

不幸のど真ん中にいたいのだろう。不思議なものだ。

自分の人生を分析してみれば「不幸でありたい」ですべて説明がつきそうである。

 

さて、問題はそれを変えるべきなのかどうかだ。

不幸でありたいと思って不幸のまま死ねばいいのか、それを変えて幸福を求める心にして幸福を目指すのがいいのか。

不幸でいいなら不幸のままでいいと言える。

だが幸せになりたいという気持ちもゼロではないからそっちに行きたい気もする。

難しい。非常に難しい。

人生は難しい。というより心が複雑だ。

不思議なものである。

生きたいと思えないのはなぜか

前提として私は生きたいと思っていない。

というか、生きたいと思えない。

なぜなのかと考えると生きたいと思えるような人生ではないからだろう。

ではなぜ生きたいと思えるような人生を歩んでいないのか。

その疑問が浮かぶ。

ただわかっているのはいくら理由付けしても納得できないということだ。

神の采配だろうが、偶然だろうが結局納得できないのは検証済みだ。

 

そもそも生きたいと思えるような人生とはなんだろうか。

それがわからない。

生きたいと思っていないからそれがわからない。

いいことがあれば思えるのだろうか。

いいこととはなんだろうか。

いいことを感じる心がないからわからないのだろう。

結局はこころの問題だ。

それが面倒くさい。

天国があっても「面倒くさい」から寝てそうだ

面倒くさい。

この感情にどれだけ抵抗してきたことか。

なんとかしてこの面倒くさいから抜け出せないだろうかと試し続けた。

楽しいことがあれば抜けられると思っていろいろやってみたが一時的。その一時的も1日しか持たない感じ。

政治や社会やらに興味を持って日々を過ごせばいいのではないか?と思ってやってみたがだめ。知れば知るほど「人間って面倒くさいな」になっていっただけだった。

小さな幸せで満足できるか試してみてもだめ。単純につまらないなぁとしか思えない。

いつか死ぬから何に対しても面倒くさいと思っているのかもしれないと思って天国を信じてみることにしてもだめ。永遠の時間があってもやりたいことがなんにも浮かばない。天国でも結局面倒くさいから寝ているだけだと思った。

スピリチュアルとかによくある「魂のレベル上げ」という話も面倒くさいとしか思わないし、宇宙が進化するために~とかそういう話をされても魅力を感じないどころかやっぱり面倒くさいとしか思わない。

最初から完成されてればいいじゃん。神が作った世界なら。としか思わない。

 

ここまで面倒くさいのはなにか精神的に問題があるのかもしれないと思って、回避性パーソナリティ障害なのか、それとも愛着障害の回避型なのかと思って調べてみたけれども、うーんという感じ。

しっくりこない。なるほどそういうことだったのか!とは思わなかった。

 

こうなると完全に八方塞がりでただただ人間として面倒くさいが強いという結論に至った。

面倒くさいの背後に何があるのかと考えてみると「感動がない」ということだと思う。

知らないことは山程あるし、体験してないことも山程あるがそれらのために行動する気にならないのは感動がないからである。

多分20年ぐらい感動がない。

何しても感動がないから面倒くさいになってしまうのだろう。

日常はただの義務のような感じ。

何をするのも義務のようにしか感じられない。歯磨きをしなければならず、お風呂に入らなければならないという感覚で日常のすべてを生きている。

新たなことをするのは新たな義務を増やすことにしか思えないから「面倒くさい」になる。

人生に感動がない。心が動かない。

鬱だから心が動かないのか。心が動かないから鬱なのか。

どちらにしても感動がない日々を過ごしている。

命を使うタイミングを待っている

これといってやりたいこともなく、やれることもない人生を歩んでいる。

そういう人生の場合は命のありがたさを感じることもなく、命が続いていることにこれといって魅力を感じない。

死ぬのを待っているだけである。

だから自分の命を使うタイミングを待っている。

この無意味な生に意味があるのならばきっと自分の命を使うことになるだろう。

だからその瞬間を待っている。

命を使うタイミングを待っている。

なんのために使うのかはさっぱり見当もつかないが、きっとこの命を使うタイミングがあるだろう。

この人生が無意味に続いているのには何かしら意味があるのだと思う。

この人生を肯定する瞬間があるはずだ。一度きりの瞬間があるはずだ。

命を使う瞬間があるはずだ。

ただ自由と気がつけばいいだけ

私が何を求めているのかといえば自由である。

自由しか求めていない。

幸せでも快楽でもない。

自由一択である。

 

ではどうすれば自由を感じられるのか。

難しいことはない。ただ自由だと思えばいいだけだ。

制限がない状態が自由なわけではない。選択肢があることが自由でもない。

やりたい放題やれることが自由なわけでもない。

何もやらないでいられることが自由なわけでもない。

自由とはただ自由だと気がつけばいいだけのもの。

無限の流れの中にいる自分という存在が自由以外の何物でもないことに気がつけばいい。

ただただ自由であると気がつけばもうそれで自由だ。

 

 

すでに知られていることでも、自分で発見する事が大事

世の中広いもので大抵のことはすでに発見されているし知られている。

だから自分で発見したと思ったことすでに誰かが発見している既知のことばかり。

だが、そんなことは関係がない。

世界で初めて発見しなければいけないわけじゃない。

自分の人生で自分にとって重大な発見を自分ですることが大事だ。

自分で発見したからこそ身につくし、自分で発見したから達成感がある。

誰かの知識を拾い集めるだけでは絶対に人生は生きられない。

必ず自分で発見することになる。

大事なことは自分で発見することになる。

人生とはそういうものだ。